璞社のことば
2023年6月22日更新
書は面白い
2010年2月 江口大象(二代会長)
習っている先生の書風にはまるのは至って自然である。子供ではあるまいし、ただ単に近所だから習いに行くなんてのは論外で、いっぱしの大人であれば好きな書風だからこそ習いに行くのであって、当然その先生の書風を書きたい気持ち満々で門を叩くであろう。
古典も同じ。 好きな古典を探し求めてたどり着いたいくつかの古典。 そっくりに近く書こうと努力する数年あるいは数十年の時を経て、自分の非力を悟り、仕方なく自然に自分の字、自分の書風を作り上げてゆかざるをえないのが書人の人生ではないだろうか。
そうしなければ百歳も生きられぬ人間の一生で、自分の字を作る時間が持てないのではないのかと危惧する。古典臨書(師匠の字を真似ることも含めて)の最終目的は自分の字(書風)を作ることだろう。それはある日突然変わってもいいし、自然に変わっていくのもいいと思うが、大事なことは変化発展し続けることだと思う。でなければ少なくとも「新鮮さ」を保つことはできない。しかし新鮮さを求めるあまり下品になっていることに気付かない人が大多数で、それらの作品は静かに歴史から消え去るだけである。
実をいうと私の作品はこの数十年の間、書風がちっとも変わらない、品も少々・・・といわれている。全くその通りで、最近の少し大きめに書いている作品など、あとになって自分で見るのさえ嫌なものもあるので、ただただ頭を下げるしかない。
書は面白い芸術で、自分の数年前の作品を見ても、その時の心の動きが自分でわかる。自分の作品ならそんなことあたりまえだと思うかもしれないが、この作を書きながらあんなことを思っていたとか、この作は本当に無心だったようだとか、その他ここに書いてもしょうがないような細かいことまで脳裏に泛(うか)んでくる。
自分以外の作品でも、この点画この払いは無心であったか意図的だったか、いやいや書いているものか困り果てているものか、などすぐわかる。 本当にすぐわかる。
そんな意味、書は底抜けに面白い芸術で、音楽とも絵画とも違った、ある意味すごい芸術なのである。 わかりはじめるとこんな面白いものはない、と断言しておこう。
さあ行こう
1981年1月 小坂奇石(初代会長)
はたちになったときの胸を張りたいようなよろこびや、還暦を迎えたときの愕然とした驚きは、今も鮮明に覚えている。人生は十年、五年単位の区切りで考える方が自然なのかもしれない。
私は今年の一月で満八十歳を迎える。鮮明な感動はないが、年齢(とし)の重みは充分ついてきたことを感ぜざるを得ない。書作品は年相応に変化し成長してゆくものである。私の近年の作品が年相応に立派なものかどうかを考えると甚だ心許ないのだが、少なくとも「老境」は作風のうちに出て来はじめたのではないかと思う。老境と言っても枯れることではなく、規矩を超えても尚多少の若さを保ったものでありたい。できるだけ若々しく気勢のある恬淡とした作品が私の理想であるが、今年は理想に一歩近づくよう努力したい。
昨年十一月、郷里の徳島県から文化賞をいただいた。祝賀会も盛大でたくさんの方が祝ってくださった。徳島新聞からも感想を頼まれて一文を書いた。
「錦を着せてくれた故郷」と新聞社の方で見出しをつけた。
宋の韓琦が故郷の相州の大守に任ぜられたとき、園内に堂を作り畫錦堂と名付けた。「富貴にして故郷帰らざれば錦を衣(き)て夜行くが如し」の古諺から来たものであろう。そこで知人の歐陽永叔は「畫錦堂記」を書いた。そのことを記事に入れたのだが、その辺からであろう。
この受賞を八十歳への大きな飛躍台にすることが、郷里への恩返しであり、私のつとめでもあるように思う。
折から書源は十五年目を迎え、記念すべき一つの節に「学生書源」が三月から創刊される運びとなった。「さあ!」というかけ声がそこここから聞こえてきそうな勢いを私は感じている。
※「学生書源」として1981年に創刊した現「みなもと」は、おかげさまで今月「通巻500号」を迎えました。
古典のありがたさ
1970年12月 小坂奇石(初代会長)
先日ある私の尊敬する知人から「経塚」の二字の揮毫を頼まれた。
〈中略〉
何日か思案しているとき、ふと頭に浮かんだのが顔真卿の中字麻姑仙壇記であった。それを参考にしつつ多少の工夫と苦労はしたが、その日は割合楽に書けた。
古典はいつも創作を助けてくれる。ヒントを与えてくれるし、習えばもちろん見るだけでも我々に限りないイメージを与えてくれる。私はひまを見てよく目習いをするのだが、千年、二千年という長い書の歴史を生きてきた古典には、見るたびに新泉を汲む思いがあり、なるほどそれだけの理由があると感じ、つねにありがたく思うのである。
創作には土台がいる。土台とは端的に言えば臨書である。最終的な作品の上でどの古典かに似ているという必要はないが、根拠のない書き方はいけないと思う。根拠とは伝統といっても差しつかえないだろう。
構えとか、筆使いとか、形のとり方とか、一見個人的なことのように見えるもろもろの部分にも伝統の重みを忘れてはならない。臨書とは伝統を受けつぐための手段でもあり、その人の作品を高めるための営為でもある。
明るく大きく
1995年1月 江口大象(二代会長)
半紙に向かって楷書の手本を書いているとしよう。書家は皆そう考えるのではないかと思うが、私は、ということで話をすすめると、私は書きながら一つの点画をどこへどう持っていったらこの字が明るく大きく見えるのか、をいつも思っている。
字を大きくせずに大きく見せるには、どんな点画の組み合わせベストなのか、を一点一画ごとに考えながら筆をすすめてゆくのである。私は字典を見て、古典から字形を拝借する場合でも「明るく、大きく、ゆったり見える」ものをいただく。その点、墓誌銘の字などは、小さな字をいかに大きく見せるか、工夫を極限まで考え抜いたようなものが多いので誠におもしろい。
大学にはいったばかりのとき、續木湖山先生の『九成宮醴泉銘』の講義を受けた。「九成宮はね、字形がしまっている割には大変ゆったりして明るくみえるでしょう」と例のポツポツとした話し方ではじまり、秘密の一つは、四角く囲まれた部分の内側を広く見せていること、例えば「口」の字ならば外側は尻すぼみの形でも、内側のかどは90度になっていること。もう一つは点画のくっつき方に相当の工夫がなされていること。その上で中心線を微妙にずらしてあること、などを実際に学生の目の前で書きながら説明してくださった。九成宮など、ただ縦長のしまった字形、としか思っていなかった当時の私には印象深い講義であった。
書家は、ひとことでいえば(特に楷書の場合)小さく書いて大きく見える工夫をしているといってよい。
若い人へ
1975年10月 小坂奇石(初代会長)
書はむき出しの若さを嫌う。しかし若い人には若い人らしい息吹きの感じられる作品を書いて欲しいと私は思う。それはあくまでも大成への過程として望むのであって、決してそれ自体高度な芸術作品であることではない。
ことばをかえると、書は老成を求める芸術である。長い年月をかけて老成を待つのは東洋芸術の特色であろう。若い時から壮年にかけてじっくりと技術と学問の基礎をつくり、人間性の高揚とともにそれを醸成し芸術の華を咲かせるのである。
書の世界では、二十代三十代の作品が生涯の傑作であることはまずないだろう。たとえその頃に
良い作品が書けたとしてもその人がそれ以後に書いたもののほうが、より価値の高いものであることはほぼ間違いない。そこに書のむつかしさがあり、また面白さもある。
若い人は若さを武器とした作品を書いて欲しい。若い人がいやに老成ぶった作品を書くよりもよい。ひとりよがりの暴走をしない限りそれはそれで将来に良い結果を齎(もたら)すであろう。しかも本当の腹の底からの力が巧まずして作品に出てくるのはそれ以後であることも心得ておきたい。
そこで若い人は真摯な臨書と、書についての巾の広い学問―私はそれを奨めたい。若さがわき道に暴走しないためにも、地道な努力に時間をかけて欲しいと思う。
自作の前に立て
1974年3月 小坂奇石(初代会長)
璞社展の作品を書き終えたところでペンを執っている。作品を書き終えて印を押し、なげしに掛け、たばこに火をつけるときはいつも心からくつろぎを覚える。表具したらどうなるだろうと思い、会場に陳列されたときの姿を脳裏に描くのも楽しい。制作に苦しんだ人だけの味わう楽しい一と時である。
しかし現実にはそう楽しんでばかりもいられない。予想通りのこともあるが、予想に反して悪く見えることもある。よく聞くことだが、会場で自分の作品の前では恥ずかしくて立っていられないという人が多い。だれしも自分の欠点をイヤというほど眼底に焼きつけるのである。
先月号に厳しい自己反省なしには進歩がないという趣旨のことを書いたが、ここでもそれをくり返しておきたい。璞社展は年々出品者が増えているが、璞社展に限らずいろいろな展覧会にはつとめて出した方がよい。そこで自作を見、他人の作品も見、他人の批評にも大いに耳を傾けてほしいと思うのである。多見、多作、多推敲に勝る上達法はない。
批評
1972年3月 小坂奇石(初代会長)
最近展覧会が随分多くなった。作品を作る人も大変だが見る方も忙しい。しかし作る人と見る人とはたえず交代するので総じて書をやる人の多くは忙しく、それだけ勉強の機会も多くなったわけである。作品の前に立ち長く見入っている人や、連れの人と楽しく批評を交している風景をよく見かけるのであるが、書をやっている人は勿論ズブの素人の中にも具眼の士がいて適確な批評をする人が増えてきたように思われる。
よきにつけ悪しきにつけ、批評は大いにしてよいと思う。たとえ先輩の作品であっても遠慮なく捕え、それが毒舌不遜でないかぎりむしろ良いことだと思う。批評眼も次第に高まり、やがて自己の心と技術を高めることに役立つだろうから。しかし自分の眼が正しいかどうかを確かめるために常に師や友人とそれを話題にし独善に陥らぬよう警戒しなければならぬことはいうまでもない。
ところで評を下す前に心得なければならぬことがある。一つ間違えばとんでもないことになりかねない微妙で重大な違いが案外多い。例えば生気と覇気、剛健と粗暴、簡素と単純、素朴と粗野、荘重と鈍重、流暢と軟弱、軽妙と軽薄、歪形と畸形等々。
こう考えると書の見方も実にむつかしいもので、批評それ自体自己を語ることであり、従って識度の深浅を暴露することにもなるので常に慎重でありたいと思う。ついでにいえば必ずしも年令にこだわる必要はないが、研究の浅い人が永年苦労してきた人の作品を、よし悪しに拘わらず簡単に批評し、それが自信過剰からの放言であったり、さらには感情的な褒貶であってはむしろ有害無益であろう。要は評者の眼識と高卑とその態度如何によって功ともなり罪となるのである。
書作のむつかしさ
1967年11月 小坂奇石(初代会長)
充分わかっているつもりでも、いざというときにどうにも筆が動いてくれないということが多い。頭の中の理解だけでは、考えていることの半分も表現できないのが書作の常である。
今年の日展作も終った。入落はともかくとして、夏から秋にかけてその制作に全力を傾けた成果は、今後何らかの面にあらわれてくると思うが、制作の過程で気分が堅くなり、日頃の実力の半分も出せなかった人が多かったように思う。その人達には「もっと気軽に」「もっと柔かく」「もっと無心に」といったことを何度か言ったが、期日の切迫につれて、私のことばは理解できても、いざ筆をとるとそのことばが頭の中を空転するばかりで、なかなかそれが作品に表われるところまでは行かなかったようである。気楽に書くということは、まことにたやすいことのようであるが、実は最もむつかしいことである。
日展の制作には、一種特別の雰囲気があり、だれしもその中に呑まれてしまうものであるが、今静かに考えてみると、我々は日頃から書を楽しむだけでなく、生活の一つ一つを楽しむ心の豊かさを持たなければならないとも思う。書作品と人間性とは表裏一体の関係にある。私は、人間性の向上は必然的に書作品の品位につながると思う。
あえてむつかしいことをいったが、実は私自身を含めての誡なのである。
熱中する
1969年10月 小坂奇石(初代会長)
一つのことを成就しようとするとき、すべてを忘れてそのことだけに熱中する時期というものが必要である。書の世界ではそれが特に要求されると思う。
私にも夢中で練習に励んだ十年間があった。映画や芝居も酒のつき合いも極度に慎み、ほとんど毎日筆を持った。期間の長短はあっても、現在名を成している人達は勿論、小さくても城を構えている人達は皆そういう過程を経てきているはずである。その時期に築かれる書の考え方や技術的な基礎は、その人の将来の書生活を大きく左右する。言葉を換えて言えば、この時期に良師について指導を受けることがどんなに大切であるかということである。
書は理屈だけでは片づかない。理屈は理解の助けにはなるが、実際に書いて体で感じてみなければ何の役にも立たない。そこに夢中で書く長い作業の時期が必要になるのである。書いて書いて書きぬいてわかってくることの積み重ねで、少しずつ成長していくのが書の道である。
高野山の錬成会は盛会であった。毎年少しずつ増えているのも心強い。書き疲れては書談に花を咲かせ、また気を取り直しては紙に向う真摯な姿を私は楽しく見た。その人達のその後の勉強はどうだろうか。高野山以上に張切ってやっている人のあるのも私は知っている。
一見人からは無駄なことのように見られても、当人が心を打ち込んでいる以上、それは鍛錬であり行である。書はそうした時に成長し、精神もその中で培われていくのである。
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