競書誌
「書源」への思い
書源創刊の辞
1967年1月 小坂奇石(初代会長)
いま日本の書道界は激しく動きつつある。終戦から二十一年を経て書道人口は戦前に数倍し、書道ブームの声さえ聞くに至った。日展をはじめ県展、市展、大新聞の主催する公募展や選抜展、グループ展や個展、さらに国外に紹介される日本書道展など年中間断なくどこかで開かれており、東洋古来からの伝統書はもちろん、前衛派、墨象派もそれぞれ意気高らかに、三派三様まことに華やかな展開をみせている。しかしながらこうした現状が必ずしも正鵠(せいこう)を得、健康な進展を示しているとは信じられない。
戦後頻りに使われる語に「造型」とか「構成」とかがあり、また「白と黒の対決」とか「生命の躍動」と言った新語も使われている。これらはもちろん書作上の重要な条件ではある。私はそれらを一応肯定した上で、それにも増して重要なことは精神美の表現であらねばならぬと信ずる。
現代において、もし書作の、ないしは評価の基準が、もっぱら造型、構成、対決、躍動といったところに置かれるとしたら、昭和の書道は低調とならざるを得ないだろう。西洋は知らず東洋においては、精神美を抜きにして芸術を語ることはできないし、書作も鑑賞もできないのではないかと思う。
戦後急速に移入された西洋文明は、日本のあらゆる面に影響を与え、新しい文明の開花と経済の成長をもたらしたが、反面、精神を軽んずる風潮をも生んだ。
現代の日本人の精神性の低下は、芸術ならずとも各方面で問題化しているが、われわれ東洋に生まれ東洋独自の芸術に携わる者にとって「芸術の中に心を」はもっと切実に意識されなければならない。近年書壇の一部に人間不在の作品が目立ってきた。今こそわれわれ書人は、東洋の精神で東洋の美を感じ、書を通して「東洋」を社会の中に復帰させなければならない。この意味でわれわれは一層東洋的芸術良心を磨き、書作において鑑賞において常に古(いにしえ)を稽(かんが)え、堕せず偏せず穏健中正な態度をもって学書の大道を歩みたいと思う。
「書源」の発足にあたり、いささかなりとも会員相互の親睦と向上発展に努め、これを若き世代の研究家と、これを支持する書の愛好家に送り、さらに先輩知友諸賢のご声援を冀(こいねが)う次第である。
(「書源」創刊号巻頭言)
まだ三百号
1991年12月 江口大象(二代会長)
先生は亡くなられる前の日まで食欲があった。痛みを訴えられることもなく、瘦せられることもなく、安らかなお顔、誠に静かな終焉であった。
「わしの生涯は、よくもなし悪くもなし、まあまあじゃった」
といわれたのは、米寿個展のあとだった。先生はこのとき、私個人などではなく、もっと大きな対象に向かって感謝されたのだろうと思っている。相手は「神」だったのかもしれない。先生のお話の中には、神とはいわなくても「生かされている」ことへの感謝のことばが常にはいっていた。
さて、先生の強い意志でうまれた書源は、今月ですでに三百号を数えたが、その後引き継ぐわれわれにとっては「まだ三百号」の気概が大切だと自分にいい聞かせている。先生は書とともに人間としての生きざまも学ばせていただいた。書以外のことはほとんど犠牲にされた「書への情熱」とか「書への執念」といったことを先生は生涯を通してわれわれに教えてくださったと思っている。それら諸々のことを、三百一号からの書源を通じて少しずつでも披瀝してゆきたい。書源の仕事はこれから、ゆえに「まだ三百号」なのである。
平成四年のスタートは、書源再出発の第一号としたい。五百号へ向けての第一号としたいと切に思うのである。
(「書源」300号巻頭言=第25巻12号)
五百号
2008年8月 江口大象(二代会長)
「現在」はその場で「過去」になってゆく。あたりまえといってしまえばそれだけのことであるが、面白いといえば面白い。
「書源」の創刊は昭和42年であった。1年以上の準備期間を経て、1月10日の昼頃に創刊号を手にしたときは、自分にもこんなことができるのだ、と素直にうれしかった。
その日は発送のために当時勤めていた高校を欠勤している。しかし実際に発送が終わったのはそれから2日後。記録では私はちゃんと出勤しているので、多分家内が独りでやったのだろう。鼠が天井裏を大運動会していた、あの狭い四軒長屋の文化住宅を思いうかべながらこの原稿を書いている。
月刊雑誌は忙しい。目まぐるしいとはこのことで、当時はたいていのことを独りでやっていたので大変であった。しかし今に至るまで、一度たりとも煩わしいと思ったことはない。
遠い過去になった「創刊当時」であるが、毎月1回の100人ほどの皆さんに集まってもらう月例の競書審査を500回もやったのか、と思うだけでも感慨深いものがある。
創刊当初から持ち続けているものは、決して脇道に逸れず「書の正道を歩む」こと、世界に誇る「日本の文化」を日本人に深く沁み込ませたいということ、そして当然「小坂奇石イズム」をあらゆる方法を講じて正しく伝えること、である。従って記事の多い雑誌にしたい、そうしなければならないと思って今日まで来た。
昨日500号記念号用の作品を書いた。いつもより多少書いたが、結局1枚目のものに落ち着いた。とりあえず「初夏」を「孟夏」にしたかっただけであるが、そのあとの、努めて完璧を期そうとする心の動きが作品のそこかしこに出てしまって、それが自分でわかり嫌になるのである。
「允(まこと)に其の中を執れ」。これは小坂先生が第2回璞社書展に書かれた文句であるが、いうまでもなく書の本道を歩む団体であることを高らかにうたったことばである。その先生の気持ちをそのまま引き継いで600号を目指したいと思う。
(「書源」500号巻頭言=第42巻8号)
次の目標
2016年12月 江口大象(二代会長)
思わず六百号の記念の作品に「破顔大笑」と書いてしまった。今まで自作を自宅に飾らないことを心に決めていたのに、璞社書展終了後は我が家の玄関に掛けることにした。
数少ない私の自慢話の一つに「書源」創刊号から編集に関わって来たことがある。雑誌の発行だけならまだしも、その他のいろいろな仕事(そちらが本業)を含めると本当に目の廻る忙しさであった。発刊に至るまでの話し合い、実際に毎月出始めてからの無限に膨らむ想定外の雑用、家内と二人で始めた無謀な仕事に溜息のみであった(五十巻一号に多少詳しい)。
そうかもう六百号か、よく続けられたもんだと最近この十数年ほどは一人腕組みして皆の仕事ぶりを他人事のように眺めている。
五百号は平成二十年八号であった。そこでは「允執其中」と書いた。小坂先生が第二回の璞社書展に書かれた文句であるが、言うまでもなくわが璞社の神髄だろう。うちには「遊於藝」と書かれた二百号の額と「不如学」と書かれた二百五十号の軸がある。
私は破顔一笑をもじって大笑として、自分で自分を褒めた。やはり六百号はうれしかったのである。
さて次の目標を八年数か月後の七百号にできるのか。まあやれるだけやりましょう。まだやりたいこと、書きたいこと、いいたいことがありそうなので ー 。
(「書源」600号巻頭言=第50巻12号)
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